
キリスト教とは、約2000年前にナザレと言う街(エルサレムの約100km北)でヨセフとマリアの子供として産まれ、大工(家具職人)として生き、エルサレムにあるゴルゴダの丘で十字架による死刑によって約30歳の若さで亡くなったイエスが、私たちのキリストだと信じる宗教です。ちなみにイエス・キリストという名前で知られていますが、「名はイエスで姓がキリスト」ということではありません。“キリスト”とは「メシア・救い主」という意味です。すなわちイエス・キリストとは「救い主イエス」という意味です。
「イエスこそが自分の救い主(キリスト)である」と信じる人たちが、クリスチャンです。クリスチャンの中には、「神様のために働くように」と神様に召し出され、特別に神学校などで数年訓練を積んだ“牧師(プロテスタントの場合。カトリックでは“神父”などと呼びます。)”や“伝道師”などと呼ばれる人たち(合わせて「教職者」と言うこともあります)と、一般の社会人や学生として生活し、それぞれの教会に通っている“信徒”や“信者”などと呼ばれる人たちがいます。
一般に旧約聖書と新約聖書のみを聖典とする宗教をキリスト教とみなします。ただし旧新約聖書と同等ないしそれ以上の価値をもつとされる他の文書を使用しているのもかかわらず、キリスト教を名乗る宗教も存在します。このような宗教は「キリスト教系の異端」と呼ばれます。
1.イエス・キリストの時代 −キリスト教と名が付く前−
当初、キリスト教は今から約2000年前のユダヤ(当時はローマ帝国の属国でした)の宗教であるユダヤ教の一派と考えられていました。イエス・キリストが弟子への説教にユダヤ教の教会堂(シナゴーグ)を使った事が新約聖書に載っています。また、イエスのことをユダヤ教の教師である「ラビ」と呼んでいる箇所も新約聖書にはあります。イエス自身にはユダヤ教と分離する意識はなかったと考えられています。
2.「キリスト教」誕生とローマへの伝道
イエスの十字架による死の後、その復活を目撃したとされる使徒の下に集った共同体からキリスト教が発生しました。
教会内では、「ペンテコステ」の出来事(集まって一緒に祈っていた使徒たちの上に神からの聖霊が降った)から教会すなわちキリスト教が始まったとされています。ですが学者の間では、西暦70年の第一次ユダヤ戦争の結果起きてしまったエルサレムの神殿の崩壊と、同時代に行われていたユダヤ教徒の正典制定の過程によってユダヤ教と袂を分けた(すなわちキリスト教が成立した)と考えられています。
イエスが十字架につけられた土地であるエルサレムに成立したエルサレム教会は、禁欲主義の下に財産を共有して生活をする一種の修道的な教団で、布教活動、ましてエルサレムを離れての活動には積極的でありませんでした。
対して、異邦人(ユダヤ教徒以外の人)の改宗者が多くなったために設立したアンティオケア教会は、異邦人改宗者に対して割礼、食物禁忌、律法遵守を免除したため、エルサレム教会から猛反発を受け、各地のキリスト教共同体で論争や分裂が起きました。そうした中パウロは新約聖書において、アンティオケア教会の側に立って異邦人伝道をしていく事に関して従来のユダヤ教の習慣にこだわることは無いと述べています。
前述のエルサレムの神殿の崩壊とそれに続くローマ帝国への併合とユダヤ人の離散(「ディアスポラ」と呼ばれます)によって、キリスト教はユダヤ人とともにローマ帝国の中に急速に浸透してゆきます。
3.ローマによる弾圧と国教化
キリスト教徒はローマ帝国で行われていた皇帝崇拝を拒絶したので帝国政府から迫害されました。特にネロ、ドミティアヌス、デキウス、ディオクレティアヌスといった皇帝のもとで大々的な迫害が行われました。殉教者の記録を見ると当時のローマ帝国の領土とキリスト教会組織の広がりを知ることができます。
数次にわたる迫害にもかかわらずキリスト教の広まりは衰えることなく、4世紀になるとキリスト教を公認する国が現れるようになりました。301年にはアルメニア王国が初めてキリスト教を国教と定め、次いで350年にアクスム王国(現在のエチオピア)でも国教になりました。311年ガレリウス帝が大迫害の後に寛容令を出し、313年コンスタンティヌス1世とリキニウス帝によるミラノ勅令によって、他の全ての宗教と共に公認されました。その後数回の公会議(教理などを会議する高位聖職者による会議)を経て、キリスト教の基本的教理が確立します。
公認された後もユリアヌス帝などの抑圧を受けましたが、テオドシウス帝は380年にキリスト教をローマ帝国の国教と宣言しました。さらに392年には帝国内の異教信仰が禁止されました。ちなみに364年のラオディキア教会会議により、安息日をユダヤ教と同じ土曜日から、イエス・キリストが復活した日曜日に換えることになりました。
4.教理の確立と分離の始まり・風習の吸収
前述の数回にわたる公会議による教義の確認は正統教義の確立を促しました。ですが、その一方で異端とされた教説の保持者が教会から分離することにもつながりました。
431年のエフェソス公会議で異端宣告されたネストリウス派はイラクのアッシリア教会などに継承されています。(ネストリウス派は、「キリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つの位格に分離される」と考えます。それゆえ、人性においてキリストを生んだ「マリア」が神の母であることを否定します。)
451年のカルケドン公会議で異端宣告されたキリスト単性論は、エジプトのコプト正教会や、エチオピア正統教会、シリアのシリア正教会(ヤコブ派)など現在「東方諸教会」と呼ばれる宗派につらなっています。(単性論とは、「イエス・キリストには神性のみが存在するという考え」です。)
キリスト教が各地に伝わっていく際に、もともとその地にあった風習や祭礼が、キリスト教的再構築の上吸収されました。今の日本でキリスト教というと、まず「クリスマス」が挙げられますが、これももともとミトラ教(インド・イランの神話が由来の古代ローマにあった宗教)由来の祭事であったのを、キリスト教が吸収したものです。
5.東西の分離 −相互破門−
7世紀になると、マホメットによりイスラム教が成立します。イスラム教の聖典「コーラン」にも、聖書に載っている人(モーセ、アブラハム、イサクを始めイエスも)が登場しています。イスラム教に近い東方教会(コンスタンティンポリス)がよりイスラムの影響を受けます。
9世紀ごろから東西教会の対立が顕在化してきます。そして1054年、ローマ教皇とコンスタンティンポリス世界総主教が互いに破門しあってしまいます。教義的には、聖霊の流出が「父から」とするのに対して、ローマ教会が「父と子から」と改変したことに起因しています。しかし、その実態は政治的・文化的な問題であり、西ローマ帝国崩壊後に、神聖ローマ皇帝の下に徐々に政治的に結集してきた西ヨーロッパ世界が、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)に独立・挑戦したといえます。
1054年の東西教会の相互破門とそれに伴う分裂を特に「大シスマ」と呼んでいます。
6.宗教改革 −プロテスタントの成立−
ルターの贖宥状批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、プロテスタントの分離へと発展しました。
ルターによるルーテル教会、チューリッヒのフルドリッヒ・ツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革長老教会、ヘンリー8世によって始まったイギリス国教会などが成立しました。また、当時はその他に再洗礼派(今日メノー派が現存)など急進派も力を持っていました。
7.分離から合同へ −エキュメニカルの歩み−
8.日本のキリスト教史