
“開かれた教会”シリーズは厚木教会の週報と共に配られている「週報・こころのとも版」に齋藤牧師が毎週寄稿している文章です。
「こころのとも版」は現在毎週発行されています。下記の文以外にも様々な文が掲載されています。
開かれた教会343
「聖霊と信仰とに満ちた人・バルナバ」
ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。(使徒言行録11章19節〜24節)
これまで、サマリヤ人伝道、エチオピア伝道、コルネリウス伝道という風に三段階的に、異邦人伝道の準備はなされてきました。この三段階的異邦人伝道の頂点に、アンテオキア教会の誕生が位置づけられます。この異邦人伝道の最大の拠点は、どのようにして出来たのでしょうか。
ステファノの殉教をきっかけにして起こった迫害のために、人々はフェニキア、キプロス、アンテオキアまで散らされて行きましたが、この人たちは、ユダヤ人以外の誰にも御言葉を語っておりませんでした。しかし、彼らの中のキプロス島やキレネから来た人々が、アンテオキアへ行き、ギリシヤ語を話す人々にも、主イエスについて福音を告げ知らせました。
当時の世界三大都市(ローマ、アレキサンドリア、アンテオキア)の中の一つであるアンテオキアは、シリヤの首都として、セレウコス一世により紀元前三百年に建設されました。近郊の人々を入れればおよそ八十万人の人口にのぼり、「大いなるアンテオキア」と呼ばれていました。そこに何人かのキプロス人とキレネ人が来てギリシヤ語を語る人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせました。 アンテオキアは、地中海から二十四キロ入ったオロンテ川の河口に建設されていて、美しい国際都市でした。しかし、贅沢な生活と不道徳的生活のため、軽視されていました。戦車競技や昼も夜も飽くことなく快楽を追い求める者の町として有名になっておりました。この大都市は気違いじみた競技と賭けと賭博と夜ににぎわう都市でした。この都市は同時にダフネ神礼拝(偶像礼拝)で有名でした。
このような都市でやってきた無名の信者たちが、主イエスについて福音を語りました。彼らは難民でした。苦しい生活の戦いの中で、イエスの喜びの福音に出会い、単純に福音を信じ、イエスを彼らの主といたしました。古い自分にイエスと共に死んで、新しい自分にイエスと共に生き返ったという体験的信仰に彼らは立っていました。この人々の証の言葉を聞いて、空虚な生活を送っていたアンテオキアの人々は、多く主に立ち返りました。無名の信徒の伝道が祝され、用いられて、異邦人伝道の拠点となる異邦人の教会が、ここに歴史上始めて誕生いたしました。この教会はどんどん成長していきました。巨大な都市に集っていた人々は、それぞれの国の伝統、習慣や親族の絆などから、比較的自由だったと思われます。そのため、キリストの福音を信じやすかったのです。
このうわさがエルサレムの教会にも聞こえてきましたので、教会はバルナバをアンテオキアに派遣いたしました。エルサレムの教会はなぜ、教会代表ペトロをアンテオキア教会に派遣しなかったのでしょうか。なぜ、始めて誕生した教会にバルナバがエルサレム教会の代表として送られたのでしょうか。
「バルナバ」はギリシヤ語で「慰める」という意味です。彼は、名前の通り慰めたり励ましたり、おすすめをする賜物がありました。それだけではなく、彼はキプロス島出身ですので、異文化をよく理解できました。その意味ではエルサレム教会とアンテオキア教会の間に立って、とりなしの働きのためにうってつけの人物でした。しかも、彼は持っていた畑を売り、その代金を使徒達の足元に置いて、貧しい人たちを助けていました(使徒4:36)。レビ族出身でしたので旧約聖書にも通じており、保守的エルサレム教会の信徒達からも信用されていたでしょう。さらにアンテオキア教会が信徒運動によって出来たこと、異邦人伝道に深い理解と使命を持っていました。
聖書が記している彼の最大の特徴は、「立派な人物で聖霊と信仰とに満ちていた」です。「立派な」というギリシヤ語は「アガソス」、「質的に良い」という意味を持っています。相手の言うことも良く聞き、自分の意見もきちんと言える人物ということでしょうか。「聖霊と信仰とに満ちた人」の原型となっておられる方は、イエスご自身です。イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時に、同時に聖霊のバプテスマを受けられました(マタイ3:16)。イエスの弟子達は、ペンテコステの日に聖霊に満たされて、立派な人に変えられました。ステファノ、フィリポも信仰と聖霊に満ちていました。バルナバも聖霊と信仰とに満たされて、霊的、社会的、とりなしと伝道の働きをしました。こうして、かれは歴史的に重要な役割をすることになりました。バルナバはアンテオキアに到着すると神の恵みが与えられた有様を見て喜びました。そして、彼らが皆、固い決意を持って主から離れないようにと勧めました。割礼を重んじるエルサレム教会の代表が来ていたらこうは行きません。生まれたばかりの異邦人教会の霊的な生命はなえ、教会は混乱したでしょう。彼はまた、強い意志と決意を持って主を信じ続け、主から離れることのないように励まし、勧めました。
次にバルナバがした重要なことは、タルソスに行って、サウロを探し、見つけ出してアンテオキアに連れ帰ったことです。これは宣教、神学の歴史からもバルナバの重要な仲介の働きでした。サウロ(別のラテン語の名はパウローいと小さいもの意)は、ユダヤ教の右派の人たちから裏切り者と言われ、迫害され、殺されそうになり、彼の故郷、タルソスに9年間避難していたのです。バルナバは、そのことを覚えており、アンテオキア教会の誕生と急激な成長を見て、サウロこそ神の選びの器であると確信したのです。アンテオキア教会のためにも、異邦人伝道のためにも、サウロこそ、その任を負える神の器であるという確信を持って、タルソスにまで足を運んだのでした。バルナバの歴史の流れと、人物の本質を見抜く洞察力には驚くべきものがあります。二人は丸一年「そこの教会」に一緒にいて多くの人をおしえました。「この教会」(26)は、異邦人の教会が、教会(エクレシアー呼び出された者)と呼ばれた最初で、重要な箇所なのです。
また、このアンテオキアで、「弟子達が始めてキリスト者」と呼ばれるようになりました。「弟子」と「キリスト者」の二語がキーワードです。「キリスト者」は、ここで始めてニックネームとして呼ばれた名です。少し軽蔑の意が込められています。むしろ「弟子」という言葉の方が、彼らのアイデンティティー(本質)を明らかにしています。
当時、エルサレム教会には、預言する人々がいて、アンテオキアに下ってきました。その中の一人、アガボが立って、大飢饉が世界中に起こると"霊"によって予告しました。果たして、それはクラウディウス帝の時に(B.D.41−54)起こりました。そこでアンティオキアの弟子達は、それぞれの力に応じて、自発的に、自由に、人種差別の壁を乗り越えて、ユダヤに住む兄弟達に援助の品を送ることに決めました。そして、バルナバとサウロに託して、使徒たちにではなく、エルサレムの長老達に届けました。 驚くべき異邦人の愛と信仰の実行です。深い感動を覚えます。こういう実践的信仰にアンテオキアの人々は大いにひかれました。
私達も大都市だから、道徳的に退廃しているから、日本人は無宗教だから等と言い訳をしないで、バルナバのように聖霊と信仰とに満ちて、とりなしの業、勧めのわざをさせていただいて、厚木の地を世界の宣教の拠点(センター)としていただこうではありませんか。アーメン