
“開かれた教会”シリーズは厚木教会の週報と共に配られている「週報・こころのとも版」に齋藤牧師が毎週寄稿している文章です。
「こころのとも版」は現在毎週発行されています。下記の文以外にも様々な文が掲載されています。
開かれた教会346
「神の言葉はますます栄え広がる」
ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。(使徒言行録12章20-25節)
「神の言葉はますます栄え広がって行った」。それまでの初代教会の伝道の有様を要約した言葉です。
先週の礼拝で、わたし達は、ヘロデ王の世俗的権力(武力)と霊の力との戦いにおいて、霊の力、即ち教会の祈りの力が勝利したことを学びました。ペテロに逃げられたヘロデ王は番兵を処刑したあと、ユダヤからカイザリヤに下って行って、そこに滞在しました(19)。その滞在中のヘロデ王の急死事件が20節から23節に記されています。
この世俗の事件がどうして聖書にとって重要かというと、「主のみ言葉がますます盛んになり、広まっていったからです。」ここから、その「あらすじ」と。その福音宣教的な意味を学びましょう。
「ヘロデ王はティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた」(20)。「ティルス」はカイザリヤの北95キロ、「シドン」は約120キロのところにある、地中海岸のフェニキヤの古い町でした。ヘロデ王はこれらの町の通商権と食糧権を持っていました。ヘロデ王は、これらの住民たちとひどい敵対関係にありました。そこで住民たちは、そろって王を訪ね、その侍従(ヘロデ王の私的な僕)ブラストに取り入って、和解(平和)を願い出ました。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからです。
「定められた日」とは、当時のローマ皇帝の誕生日で八月一日でした。ヘロデ王はこの日に自分を神の様に見せようとして、昇ってくる朝日に光り輝くようにいたしました。その意味では彼はなかなかの演出家でした。この日はローマ皇帝の治政の安泰のために誓願を立てて祝う祭りでした。その日には、彼の領土から主だった人、身分の高い人たちが沢山集まってきました。そこに集まった人々は「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けました、するとたちまち主の天使がヘロデを打ち倒しました。ここで、「打ち倒した」と訳されている言葉は原語では七節で使われている「ペテロのわき腹をつついて起こし」の「つついて」と同じ言葉が使われています。ペテロの場合は「命の危険の中から救い出されるために、天使がペテロのわき腹をたたいたのですが、ヘロデに対して使われたこれと同じ言葉は、彼を打ち倒して息絶えさせるためでありました。同じ言葉でも意味は全く反対の意味に用いられました。その理由は唯一つ、ヘロデは自分に栄光を帰し、神に栄光を帰さなかったからでした。
「自分に栄光を帰した」ということが、どうしてこんなにも重く罰せられなければならないでしょうか。それは、ヘロデ王は自分を絶対化し、真の絶対者であられる神の神権を犯し、背神的であったからです。背信の罪、自己絶対化の罪、高慢の罪は厳重に罰せられなければ、世界と宇宙の秩序が破られ、混沌となってしまいます。神は神であり、人間はどこまで行っても人間である。たとえ王といえども、人間である限り、神の支配に服すべき者なのです。人間は神のみ姿に似せられて造られていますので、被造物の中では最も尊い存在として造られています。しかし、それは他の被造物を、神のみ旨に従って治めるためであり、仕えるためなのです。この最も重要な真理に反する者は、現代においても厳重に審かれ罰せられるのです。
ヘロデは蛆に食い荒らされて息絶えました。ヘロデ王は美味しいものを食べ過ぎて太りすぎ、大腸に蛆がわいて、その蛆が五日のあいだに彼の内臓を食い荒らし、ヘロデ王の命は絶えたと言われています。彼の祖父に当たるヘロデ大王も同じように死んでいったと言われています。人の上に立つ者にとって、一番大切なことは、神と人とに、僕として仕える謙遜な、僕の精神です。指導者、政治家、官僚、社長、委員長などの立場に立つも者は、公僕の精神を持ち、心して注意すべきと、これが最も重要な真理です。主のため、神のため、教会のために、命を捨てていったステファノ、ヤコブこそ最も理想的な指導者なのです。
生ける神の言葉、即ちイエス・キリストの福音を、聖霊の力、確信を持って語り、証しする者は、必ずや神と主の祝福を得るのです。教会はキリストの体であり、聖霊の宿る宮でありますから、迫害を受け困難に直面すればするほど栄え広がっていくものなのです。わたしたちがどんな迫害、困難に直面しても、神の武具を持って戦うならば、わたしたちに敵対できる者はないのです。戦いが終わった後も、その勝利の力は神によって与えられたのですから、神に栄光を帰し続けること。そうすれば教会は、栄え広がり続けていくのです。この時代の初代教会が、その一番良い実例です。
ですから、パウロも第一コリント10章の31節と32節において次のように記しています。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしてもすべて神の栄光を現すためにしなさい。」と。大預言者イザヤは31章1節から3節において次のように記しています。「災いだ。助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない。・・・エジプト人は人であって神ではない。その馬は肉なるものにすぎず霊ではない。主が御手を伸ばされると助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。」
平時にも非常時にも、わたしたちの第一の問題は、わたしたちの都合や時、お金や財産、才能や学歴ではありません。生ける神を信頼して、その十字架と復活のイエスと一体化しているか、神の言葉の繁栄と拡大を第一にしているか、神と主に聖霊の力によって栄光を帰しているかであります。第一のものを第一にする時に、神の栄光は現され、神のみわざは成され、神の国は来るのであります。
今朝早く(3/16)NHK教育テレビの「宗教の時間」を見ていましたら、太田愛人牧師が、ローマ書8:23のお言葉を引用して「愛を愛するものたち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と語っておられました。神は万事、即ち悪いこともよい事も、災いさえも益(質的に良い)に変えて下さるのです。私は今回の自動車事故の経験さえも(私の不注意によるのではありますが)これを益に変えて下さるお方であることを信じています。家内と教会の方々、わたしの子供達には大変ご迷惑をおかけしたことは深く反省し、涙を流して悔い改めました。神を愛し召された者を、主は憐れんで下さり、罪を赦し、恥・災いさえも神は益に変えてくださいます。
バルナバとサウロは、エルサレムのための任務(援助交流)を果たし、マルコと呼ばれるヨハネ(バルナバのいとこ)を連れて帰っていきました。アーメン。