“開かれた教会”シリーズは厚木教会の週報と共に配られている「週報・こころのとも版」に齋藤牧師が毎週寄稿している文章です。
「こころのとも版」は現在毎週発行されています。下記の文以外にも様々な文が掲載されています。

開かれた教会347
「断食して祈る」

 さて、アンテオケにある教会には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や教師がいた。一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。そこで一同は、断食と祈とをして、手をふたりの上においた後、出発させた。(使徒言行録13章1-3節)

旧約時代の最大の人モーセも、シナイ山で神の啓示を受ける時には、四十日四十夜、断食祈祷をしました。全聖書を通して最も偉大な人物イエス・キリストもまた、四十日間、荒野にとどまられ、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられました。このような、人間として最も弱い状態の中で、悪魔の誘惑を受けられました。そして、あらゆる誘惑を受けられて、全き勝利を得られました。

  1. アンティオキアの教会には(1)

     いよいよ、使徒言行録十三章から、宣教の中心地が、エルサレムからアンティオキアへ、宣教する人物がペテロからパウロへ、宣教の対象がユダヤ人から異邦人へと移ります。十三章一節から三節まではその序論です。この箇所で一番強調されていることは、世界宣教のわざが、単なる人間の発案、計画で始められるべきではなく、聖霊によって始められるべきもの、断食と祈りによって始められるべきものであるということです。
     アンティオキアは、当時の世界で、第二番目の大都市でした。新しい都市でしたので、古いものに縛られず、教会は急速に発展しました。この間に、預言者と教師として立つようになった指導者が多く出ました。これらのすぐれた五人の指導者の中には、使徒と言われる者は一人もおりません。使徒と関係のある人物はおりますが、使徒といわれる者はおりません。これら五人の指導者たちは、信徒伝道者ステファノの影響を受けた人たちでした。殉教の精神を持って、熱心にキリストの福音を伝え、教えた人たちでした。  その第一にあげられている人物は、今まで何度も出てきたキプロス島生まれのバルナバでした。彼はエルサレム教会の使徒たちとも深い関係を持っております。パウロを、彼の故郷タルソスに行って探し出し、連れ出してきて、彼と一緒に、一年間アンティオキア教会で働いた仲でした。
     次にニゲルと呼ばれたシメオンがおりました。彼はアフリカ出身の黒人でした。三番目の人物はキレネ人のルキオでした。彼も黒人でした。四番目にあげられている人物は領主ヘロデと一緒に育ったマナエンでした。このような社会的に高い地位の人物が、すでに、アンティオキア教会の指導者として活躍しておったことは驚きです。五番目にサウロ(パウロ)の名が記されています。最初に出てきたバルナバと、最後のサウロこそ、これからの異邦人伝道という最も困難な使命のために選ばれました。性格も賜物も対称的な二人です。その他に、預言するもの(旧約の預言者とは違い、預言する賜物を持っている者)や教師達がおりました。

  2. 彼らが主を礼拝し、断食していると(2)

     彼らは、人種や社会的地位を越えて、信仰によって一致していました。世界宣教の任務は、常に主を礼拝する教会にゆだねられていました。世界宣教の業は、人間の発案、計画で始められるべきではありませんでした。彼らが主を礼拝し、断食している時に、聖霊が発案、計画されたのでした。
     断食とはどのような力があるのでしょうか。 断食をすると、精神を一つのことに集中することが出来ます。精神が透明になります。したがって、断食することは、神の言葉、メッセージ、啓示を受ける準備となります。
     旧約最大の人物モーセは、シナイ山で十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記す時に、四十日四十夜そこにとどまり、パンも食べず水も飲みませんでした。(出エジプト34:28)新旧約聖書全体を通して最大の人物であるイエス・キリストもまた、公生涯を始める前に、荒野に行かれ、四十日間、昼も夜も断食しました。そして空腹になった時、悪魔の誘惑を受けました。イエスは食欲、虚栄、偶像礼拝の誘惑に完全に勝利されました。(マタイ4:1−11)
     ここで、バルナバとサウロ(パウロ)が、世界宣教の任務を、聖霊から受けた時は、彼らが(教会のリーダー達)が主を礼拝し、断食している時であったことに注意しましょう。礼拝と宣教は密接な関係にあるのです。主に礼拝を捧げているその時に、宣教の霊が注がれました。そして、断食をして、神の言葉を聞こうとしている者たちを、宣教の道へと召し出されるのです。
     聖霊は彼らに告げられました。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが、前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」。すでに聖霊によって選び出されていた二人を、礼拝において、全会衆と指導者の前で改めて選び出し、召し出しました。こうして、彼らの個人的召命が、公的なもの、共同体的なものになったのです。こうして、世界宣教の使命は、単に、バルナバとサウロの個人的なものではなく、公的で共同体全体のものとされました。三位一体の神と、その民である共同体全体・教会のものとされて、世界宣教の働きへと押し出されて行ったのです。彼らの宣教活動の業は、聖霊のわざであると同時に教会全体のわざとなるのです。
     バルナバとサウロはたった二人ではありますが、その背後には、ご聖霊と、アンティオキア教会全体が、共労者としてひかえているのです。この事実は、バルナバとサウロにとって、どんなにか大きな力、また慰めであったことでしょう。宣教資金の援助も重要であるかもしれませんが、それ以上に重要なのは祈りのサポート、断食による霊的サポートです。

  3. そこで 彼らは断食して、祈り(3)

     「そこで彼らは断をして祈り」とは、指導者達と会衆の断食と祈りに、礼拝の中で応えて、二人もまた断食して祈り、彼らが全く一体となったのです。そして、教会全体が一つとなって、二人の上に手を置いて祈り、出発させました。
     何とすばらしい情景でしょう。送り出す会衆も、送り出される二人も聖霊に満たされ、全く一体となっております。「送り出す」と言う言葉には「開放する」と言う意味も持ちます。送り出されたバルナバとサウロは、アンティオキア教会、エルサレム教会との過去的関係から開放され、未来に向うあらゆる可能性へと開放されていくのです。その出来事の可能性の中には、旅行の危険、飢え、などさまざまな危険が含まれていると思います。余程の信仰がないと、また復活のイエスが共におられるという保障、聖霊(身近な神)の日ごとの導きの保障、そして何よりも全能なる父なる神の臨在の保障がないと、この自らを解放し、他者を解放する救いの業をまっとうすることは不可能です。
     アブラハムも故郷の地から出発しました。イスラエルの民も、エジプトを出発しました。イエスもナザレの村から出発されました。そして神の開放の業をされたのです。わたし達も聖霊と教会に、送り出されて、断食と祈りによって、開放の業のために出発させていただきましょう。

    アーメン