
“開かれた教会”シリーズは厚木教会の週報と共に配られている「週報・こころのとも版」に齋藤牧師が毎週寄稿している文章です。
「こころのとも版」は現在毎週発行されています。下記の文以外にも様々な文が掲載されています。
開かれた教会349
「神を畏れる方々」
パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。
「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。」(使徒言行録13章13-23節)
幸いなことに、パウロの異邦人の地での最初の説教の記録が、今朝のテキストの中に、緒の部分として残されています。この説教の本論と結論部は、つづく二回で学びます。
パウロと一行は、キプロス島のパフォスから,パンフィリア州のペルゲに来ました。そこから進んで、この地方の一番大きな街、ビシディア州のアンティオキアにやって参りました。ここで始めてパウロの説教が記録されました。これまで、わたし達が学んだ説教は、ペテロやステファノの説教で、エルサレムやパレスチナでの説教でした。アンティオキアでのパウロの説教は、異邦人世界で語られた始めての説教で、新しい要素を持っていました。この説教は三つに分かれています。今朝はその第一区分を学びます。
「パウロとその一行は」と書き出されています。今までは「バルナバとサウロは」と、バルナバの名前が先に書かれておりました。おそらく、キプロス島がバルナバの故郷であったからであろうと思われます。ところが、キプロス島の西端の街パフォスから船出して、ベルゲに来た時に、パウロの名前が先に書かれ始めたのです。しかも、どういうわけか、そこからマルコと呼ばれたヨハネが、一行から別れてエルサレムに帰ってしまいました。なぜ、ヨハネは送り出されたアンティオキアではなく、エルサレムに急に帰ってしまったのでしょうか。
これについては、注解者が色々と推察していますが、本当のところは分かりません。マルコは、自分の故郷キプロスなら勝手が分かっておるし、知っている人もいるし、バルナバは自分の伯父でもあるし、と思ってバルナバについてキプロス島まではついて来ましたが、パウロはさらに先に行こうとしています。そこでマルコはとまどって、ホームシックにかかって、祖母のいるエルサレム教会に帰ってしまったのだろうという注解者もいます。
ペルゲでパウロが風土病(マラリヤ)にかかり、急に計画を変更して、けわしい道の多いビシディア州のアンティオキアに行こうとしたので、彼は恐れをなしてエルサレムに帰ったのであろうと言う注解者もいます。
ここでリーダーシップがバルナバからパウロに変わったので、異邦人伝道について厳しい考えを持つパウロを恐れて帰ったのではないかという人もいます。明確なことは分かりませんがマルコはここでこの旅行から離脱してしまいました。
しかし、後に、マルコは成長して、パウロとも和解して、共に働くように変えられております。一回、二回挫折しても悔い改めて、また異邦人伝道に復帰したわけです。わたしたちはパウロを非難したり、マルコを軽蔑したりすべきではありません。
パウロとバルナバはベルゲから進んで、ビシディア州のアンティオキアに到着いたしました。そして安息日に会堂に入って席に着きました。アンティオキアという街は、この地方最大の街で、大きなユダヤ教の会堂がありました。パウロたちが会堂に入っていった時、どうして会堂長が、パウロがラビ(ユダヤ教の教師)であることが分かったのでしょうか。恐らく、パウロたちが、ユダヤ人たちが住んでいる地区に行って、ユダヤ人が経営しているホテルに泊まったので、パウロが誰であるか分かってしまい、そのニュースが何らかの形で会堂長の耳に入っていたのでしょう。
律法(モーセ五書)と預言者の書(預言集)が朗読された後、会堂長たちが人をよこして「兄弟達、何か会衆のために励ましの言葉があれば話してください。」と言わせました。
普通、ラビは座って教えます。パウロは、なぜ。立ち上がって教えたのでしょうか。ギリシヤ人は立って教えるからです。立ったまま「イスラエルの人たちと、神を畏れる人たち、聞いてください」と言って、二つのグループの人たちに語りかけました。「神を畏れる人たち」は、ユダヤ教の会堂に出席して礼拝を守っていた異邦人です。道徳的、倫理的に腐敗、堕落していたローマ帝国の人たちは、ユダヤ人を尊敬して、ユダヤ教の会堂で安息日を守っていました。彼らはユダヤ教を信じ受け入れ、割礼を受けたユダヤ教徒ではありませんでした。パウロは、このような神を畏れる異邦人達に、聞いて欲しいと思ったのでした。
さて、この聴衆に、パウロはどのような内容の説教を語ったのでしょうか。彼は、当時ユダヤ教の最高のラビと言われたガマリエルの優秀な弟子でした。彼は、ペテロやステファノのような素人の説教家ではなく、プロ中のプロの説教家でした。プロ中のプロであるパウロが、異邦人の世界での始めての説教は、どのような内容であったのでしょうか。ペテロやステファノの説教と比較して詳しく調べることは、大変興味のある研究ですが、ここでは省略いたします。パウロの説教を読んで見ると、二つの特徴を持っていることがわかります。
第一の特徴は、この説教が、イスラエルの客観的・歴史的事実に基づいた、神中心のイスラエルの救いの歴史を要約していることです。16節から23節の短い文章の中に、「神」という言葉が五回使われています。「この民イスラエルの神は、わたし達の先祖を選び出し、エジプトで強大になったこの民を、高く上げた御腕をもって、そこから導き出して下さった」とパウロは述べました。当時、世界最強の国エジプトの奴隷であったイスラエルの民を、強い御腕をもって導き出して下さったということが一番強調されています。さらに、この神は、およそ四十年の間、荒野で彼らの行いを耐え忍び、カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださった恵みの神でした。この神は、預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命しました。その後、人々が王を求めたので、神は、四十年の間、ベニアミン族の者で、キシュの子サウルを王としてお与えになり、次にダビデを王の位につけました。神は、このダビデを最も愛されて、約束に従って、その子孫の中からイスラエルの救い主を送ってくださったのです。
第二の特徴は、神を中心としたイスラエルの救いの歴史のクライマックスを、救い主イエスとしていることです。これが、パウロの説教の最大の特徴です。この点こそユダヤ教の救いの歴史と決定的に違うところです。
パウロは、最後に、旧約時代の最大にして最後の預言者と、当時のユダヤ人達が認めていたバプテスマのヨハネが、イエスについて語った証言の言葉をもって、第一区分を終えました。「わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなた達が期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。」と。驚くべき証言です。ユダヤ人たちが、ヨハネこそメシヤではないかと言った時に、ヨハネ自身はそれを否定して、イエスこそ真のメシヤであると証言したのです。このパウロの旧約の救いの歴史全体、旧約全体が約束していたメシヤは、バプテスマのヨハネではなく、イエスご自身であるというのです。