“開かれた教会”シリーズは厚木教会の週報と共に配られている「週報・こころのとも版」に齋藤牧師が毎週寄稿している文章です。
「こころのとも版」は現在毎週発行されています。下記の文以外にも様々な文が掲載されています。

開かれた教会352
「ほんものの信仰」

 次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』」
 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。(使徒言行録13章44節−52節)

 異教の地でのパウロの説教は大成功でした。その最大の理由は、ユダヤ教の律法的信仰に対してキリスト教の恵みと罪の赦しの福音という「ほんものの信仰」を伝えたからでした。

  1. 次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まってきた。(44-48)

     パウロの説教を聴いた人々の反応は、大変好意的でした。人々は次の安息日にも同じことを話してくれるように頼みました。次の安息日には、ほとんど町中の人が、主の言葉を聞こうとして集まりました。パウロは、旧約聖書の救いの歴史をキリストに結びつけ、罪の赦しと義認という神の恵みを強調しました。旧約聖書をイスラエルの民の救いの歴史として解釈し、その歴史がメシヤ(救い主イエス)を預言し、約束していると解釈しました。町の人たちは、パウロの説教に驚き、一週間 語り合ったことでしょう。
     このイエスが、ユダヤ教の指導者達とローマ総督ピラトによって、十字架刑に処せられてしまったというメッセージにも驚きました。イエスの死は、このイエスをメシヤと信じる者の罪を赦し、神の子とするというのです。さらに、一度死んだイエスが、墓に葬られ、三日目に甦って、今も生きておられ、この復活されたイエスを信じる者に復活の生命を与えてくださるという、驚くべきメッセージでした。ユダヤ人、異邦人の差別はなく、信じるすべての人は救われる、というメッセージは、敬虔な異邦人たちを喜ばせました。そして一週間後の安息日、ほとんど町中の人が会堂に押しかけてきたのでした。
     ところが「ユダヤ人は、この群集を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロに反対しました。保守的、原理主義的なユダヤ人たちの反対の動機はねたみでした。ねたみという感情は恐るべき破壊力を持ちます。口汚くののしった」と記されています。かれらは、イエスが神の呪いを受けて、十字架にかけられて殺されたことをも、ののしったことでしょう。さて、パウロたちは、この感情的な反対にどのように対応したでしょうか。同じように感情的に反論したら、大変なことになってしまいます。一週間前に、会衆はパウロの話を静かに聞いていたのに、いったいどうしたことなのでしょうか。この騒ぎにどう対応するかが、この後の異邦人伝道、教会形成に重大な影響を与えることは、火を見るより明らかです。

  2. そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った(46-48)

     パウロとバルナバは、説教することを反対されてどうしたでしょう。彼らは勇敢に語りました。語る前に自分の気持ちを静めました。まず冷静になり、状況をきちんと読み取って、こういう中で、どう語り、行動するべきかを考えました。相手の感情的な行動にあおられて、売り言葉に買い言葉では、良い結果が出ません。自分を取り戻して、相手を恐れず、「神の言葉はまずあなた方に語られるはずでした」と語り始めました。パウロにとって思い付きの言葉ではありません。
     このことに関しては、ローマ人への手紙9章から11章にかけて丁寧に論じられています。イスラエル人にまず福音が語られるべきこと。そして彼らがその特権を捨て去った時に、異邦人に福音を語るべきこと。これらを、パウロは、時間をかけて旧約聖書を学び、自分の理解を深め、方針が充分ねられていました。「だがあなた方はそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしています。見なさい、わたし達は異邦人の方に行く」という重大な歴史的一大決心がなされました。彼自身が経験した新約のすぐれた恵みを、まず愛する同胞ユダヤ人に伝え、それから彼本来の異邦人宣教の使命を果たす生き方がここに確立されました。ユダヤ人に福音を伝えると言うことをやめてしまったわけではありません。神の定められたこの伝道の順序をこの時から守り始めたのでした。
     その理由としてあげているのは、イザヤ書 42:6とイザヤ書49:6のお言葉です。前のお言葉はイザヤ書の中では最も重要な「僕 の歌」が始まるところです。「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた」(イザヤ42:6)「あなたが地の果てにまでも救いをもたらすために」(イザヤ49:6の後半―七十人訳)。前半の「あなた」は苦難の僕、即ちメシヤを指します。後半の「あなた」は苦難の僕である預言者を指しています。
     ここに「ほんものの信仰」は、伝道の順序・まず第一にイスラエルの人々に福音を伝えるということを理解する人が持っています。第二に「ほんものの信仰」を持っている人は、嫉妬に動かされて伝道をするのではなく、冷静に神の最高の言葉であるイザヤ書42章以降に記されている客観的な預言者の言葉にしたがってするべきであると、パウロは主張しています。
     「異邦人達はこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。」改革派の人たちが「予定、選びの信仰」といっている教えが出てきます。「定められている」と訳されているギリシヤ語は「ととのえられた」とも訳されます。神によってととのえられて、人間がととのえるのです。神の定め(選び)と人間の定め(選び)とが一致した時に人間は選ばれ、救われるのです。ここに「ほんもの信仰」は「神によって定められ、人間によって定めるものである」ことが明らかにされています。
     もう一つの「ほんものの信仰」の特色がここに記されています。こういう切迫した中で、異邦人達が喜び、賛美したことです。異邦人の信仰もまた本物であることが明らかです。

  3. こうして主の言葉はその地方全体に広がった(49−52)

     ユダヤ人の嫉妬や迫害によって、パウロ達と異邦人の信徒によって、主の言葉はその地方全体に広がって行ったのでした。ユダヤ人たちは敬虔な貴婦人達や町のおもだった人々を扇動してパウロとバルナバをその地方から追い出しました。パウロたちのここでの伝道は失敗だったのでしょうか。聖書は、はっきりと失敗ではなかった、むしろ大成功であったことを明白にしています。「弟子達は喜び、聖霊に満たされていた。」というお言葉が実証しています。弟子達とは、イエスの弟子たち、即ちパウロの説教を聞いてキリストの弟子になった人たちです。嫉妬に満たされていたのではなく、「聖霊に満たされて」、神が共におられたことを、これは明らかにしています。また、彼らがパウロやバルナバに依存していたのではなく、イエスの弟子となり、聖霊によりたのんで、聖霊による喜びを持って伝道し、生活をしていたのです。この信仰もまた「ほんものの信仰」でした。わたし達も自立した本物の信仰に立たせていただきましょう。アーメン