2008/04/06

牧者の言葉 − 「祈り支えあう教会」その9
08/03/30の講壇より − 「死は勝利にのまれた」


牧者の言葉 − 「祈り支えあう教会」その9

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先週の講壇より − 「死は勝利にのまれた」

コリントの信徒への手紙T 15章50節−58節

小平キリスト教会牧師
東京聖書学院院長 石原 潔師

 この箇所は、キリストが再臨される時にキリスト者が一瞬にして栄光の体に変えられること、すなわち救いの完成について記しています。実に今日までの人類の歴史は、死に呑み込まれた歴史といえましょう。それは人が罪の結果刈り取った恐ろしくまた悲しい現実です。それは、単に肉体が土に変えるのみではなく、神との交わりが永遠に断絶される恐怖を意味しています。また聖書は「墓の中にいる者たちが神のこの声を聞くとき」、命と滅びに至るよみがえりがあり、救いと滅びが明らかにされると記しています(ダニエル12:2、ヨハネ5:28-29)。
 キリストはこの罪とその結果である死を滅ぼすために来られ、十字架上で人類の罪を身に引き受けられたのです。彼は死のとげ、すなわち神との交わりの断絶を引き受けられ、私たちの身代わりとなられたのです。パウロが最も大切なこととして記す如く、キリストは「私たちの罪のために死に」、「葬られ」さらに「三日目によみがえった」のです(1コリント15:3-8)。イースターの朝、死が勝利にのまれ、キリストはよみがえりの初穂となられたのです(1コリント15:20)。
 キリストの復活は、死が勝利にのまれた最初です。そして、キリスト者である私たちもキリストが再臨される時に、キリストと同じ復活の体に一瞬にして変えられるのです。丁度醜い芋虫がさなぎになり、さなぎから全く別物の美しい蝶が出て来る様に、この朽ちるものが朽ちないものに変えられるのです。この日、キリストにある者の死は全く勝利に呑み込まれます。ここにキリスト者の究極の希望があります。この希望故に、与えられた人生を精一杯生きて行こうではありませんか。

※ 3月30日は、イースター集会として石原師をお迎えしました。